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実際の事件と

 投稿者:なし  投稿日:2018年 6月13日(水)00時27分40秒
  小説世界とを
結びつける発想は
シャープですね!
 
 

ホットコーラ

 投稿者:なし  投稿日:2018年 6月 8日(金)06時46分45秒
  確かに
ホットコーラという飲み物が
どういうものなのか
そもそも
炭酸飲料で温かいドリンクというイメージが
想像し難いですね・・・・・
 

7月17日の宮本輝

 投稿者:なし  投稿日:2018年 6月 2日(土)15時27分56秒
  「真夏の犬」「ホットコーラ」「力道山の弟」の3作品でお願いできましたら!
 

ゆっくり検討したいです

 投稿者:なし  投稿日:2018年 3月23日(金)14時50分34秒
  (1) 迷惑メールがあれば対策を考えたいです。
   結果的に、こちらで掲示板を立ち上げることになってもよいとは思いますが
   いま少し皆さんのお考えもおうかがいしたいです。
(2) もしも、「備忘録」だとしても
   文芸の会に無関係なことではありませんので問題はないと思います。

   2人だけで決めてしまわずに
   時間をかけて考えて行きたいと思います。
 

牛肉と馬鈴薯

 投稿者:なし  投稿日:2018年 3月22日(木)07時14分37秒
  具体例として挙げていただき、うれしいです。
「牛肉」と「馬鈴薯」との対比
ここに
日本近代文学の原点があるように思います。
学問における「実用性」というテーマは
現代にも通じます。
もうひとつ「家制度」も大きなテーマなのでしょうが
こちらは、明治と
現代とでは随分状況が違っておりますよね・・・・
 

天王寺七坂

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 3月21日(水)15時35分11秒
  昨夜の読書会も盛り上がりました。ヒラオカさんお疲れ様でした。大阪をこよなく愛する作家が、「最も大阪らしい」と思われる「天王寺七坂という狭いエリアに絞って描いた短編集を読んで、上町台地・天王寺界隈の魅力をあらためて感じることができました。読書会のまえに、二時間ほどかけて春雨そぼ降るなか、七坂巡りをしてきました。この小説を読んでいなければ、どの坂も下寺町へと続く、狭くて急峻な坂であり、坂の周囲はお寺や墓地、ぎゅうぎゅう詰めの住宅で囲まれているばかりで、何の情緒も感じなかったでしょうし、そもそも七坂巡りをしたいとも思わなかったでしょう。作者の「あとがき」の言葉を援用すれば、「貧しいリアリズムに堕して」しまった七坂界隈の今ある光景に何の魅力も感じなかったでしょう。この小説を読んでいたからこそ、二時間の七坂巡りも楽しむことができたのでしょう。特に、清水坂の中段に、片側の高い塀から見える二本のしだれ桜が綺麗に咲いていたのが印象に残りました。テレビドラマの名作・倉本聰脚本の「北の国から」の舞台となったことによって北海道・富良野が観光地としてメジャーになったように、「物語」が「土地・地名」に魅力を付与することがあります。課題本もそのことに成功した作品と言えます。課題本で取り上げて頂けなければ、巡り会えない作家であり、作品であり、巡り会えたことによって、大阪の魅力を味わうことができました。感謝。
 二次会も大変盛り上がりました。日本酒の利き酒セットが美味しそうでした。それを注文しなかったことが悔やまれます。文学とはなんぞや?という話題も出ました。私は国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』を思い出します。主人公が、人生とはなんぞや?我とはなんぞや?という問いに夢中になり、まずは哲学や宗教にのめり込み、やがて文学へと関心が移っていったと述べていました。主人公=独歩自身の文学観はその後の日本の文学観の主流となっていったと思われます。通俗を卑下し、ひたすら「純文学」を価値あるものとする風潮を生み出します。「純」とはなんぞや?夏目漱石は新聞で話題になった時事ネタをうまく作品に取り込んで書いていますし、三島由紀夫は世間を賑わしたスキャンダルを小説の題材にして名作を書き上げています。「純」と「俗」を区別すること自体が間違っています。作品自体に価値があるのではなく、作品に価値を付与するのは読者であり、読者の主体的な読みこそ重要視されるべきなのです。私は、文庫本書き下ろしシリーズの時代小説に夢中になり、何度も徹夜しながら、全50巻を二ヶ月で読み終えました。徹夜してでも続きを早く読みたいと思わせる作品にであうことはまれです。題材が「純」であろうが「通俗」であろうが、読者を夢中にさせる作品はすばらしいと思います。
 大阪はすばらしい、酒もすばらしい、もちろん文芸の会のメンバーもですよ。
 

幻坂

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 3月15日(木)02時41分59秒
  課題本『幻坂』(有栖川有栖・2013年・メディアファクトリー社)を読みました。九編の短編が収められている。読んだ後、「天王寺七坂」とはなかなか味わいのある坂であるなあと思いました。地名のもつ語感や地名の由来・歴史や語り手の(おそらくは作者の)その場所への思い入れと「物語」とをうまく絡ませ、この坂ならこんな不思議なことが起こってもおかしくないよね、と読者に思わせてしまうような作品です。特に印象に残った作品は、幼少期の思い出が切ない「清水坂」、官能的で不気味な「口縄坂」、亡くなった先輩に見守られながら幸せへと一歩を踏み出した女性の心温まる話の「真言坂」です。演劇に生きる青年の姿がすがすがしい「逢坂」も悪くはない。
 この短編集は、「幻坂」というタイトルで括られる共通の一つのテーマがあるのでしょうか?
 そもそもタイトルの「幻坂」とは何のことか?どんな意味をもっているのか?
 「天王寺七坂」の七編に共通しているのは、「死」です。また、最後の二編も、芭蕉の死であり、歌人・家隆の死です。これらの「死」とテーマがどう結びついているのか?
「幻坂」とは喜怒哀楽・さまざまの思いを抱きながら上り下りを繰り返して生きる我々の人生のはかなさをいっているタイトルなんでしょうか?
 読書会の日は早めに家を出て、「天王寺七坂」の幾つかを見てみたいと思います。そんな気にさせる作品です。
 

3月20日火曜

 投稿者:なし  投稿日:2018年 3月10日(土)07時04分28秒
  幻坂
よろしくお願いします!
 

太陽の季節 補足②

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月14日(日)11時28分22秒
  作品についての、他の評論家の意見を頻用しておきます。

〇『現代の文学 26 石原慎太郎』(講談社 1973年) 所収
 ”巻末作家論 「存在充足への苦闘」 ”入江隆則の文章より

 改めて述べるまでもないことだが「太陽の季節」という小説の中心のかなめは主人公の竜哉と英子とが月夜のヨットの上で味わう神話的かつ神秘的な”至福の瞬間”にあった。二人はこの時彼等の存在の完全な開花と愛の成就とを味わい、その他のあらゆる挿話はこの開花を準備しそこに至るまでの意識的・無意識的な努力か、あるいは開花の後の退潮にすぎなかったといってもいいほどである。この”至福の瞬間”が狭義の意味での性的満足でなかったのはいうまでもない。それは続いて書かれた「処刑の部屋」でも、まったく異なった形で、やはり自分自身の存在の完全な開花を願って苦闘する一人の主人公の姿が、力動感にあふれた文体で定着されているのを知れば思いなかばにすぎるだろう。しかも、同じような”存在充足”への意志は石原氏のその後のほとんどすべての作品のなかにさまざまのヴァリエーションをなして感じられるといっていい。(略)
  私は最近、氏の出世作「太陽の季節」を何年ぶりかで読み返して、それがあまりにも健全ですがすがしく青年らしい含羞にさえあふれた作品であるのを知って、改めて驚かざるを得なかった。これが発表当時、古い道徳に反逆し戦後の解放を称える作品として受取られたということは、十数年後の今日からみるとすでにほとんどリアリティの感じられぬ遠い出来事だという気さえしてくる。
 たとえばこの小説を読みはじめて直ちに強く印象づけられるのは、竜哉という主人公が体現している、あらゆるものに屈服しない内的な”強さ”なのだが、この”強さ”が一体何に由来するのかは一度も真面目に考えられたためしはないのではあるまいか。彼は拳闘でリングに叩きのめされても「一種驚愕の入り混じった快感」を味わうにすぎないし、「手強い相手を喘ぎながら睨(ね)めつける時」も「ギラギラするような喜び」を感じ「必ず嬉しそうに笑う」っているという。また彼は「玄人」や「素人」の多数の女を相手に大人顔負けの「交渉」を持つが、彼の本能を外側から規制しようとするあらゆる力を彼が意に介しないのは、それだけ内的な本能への信頼が強いからであろう。つまり彼ははっきり自分の「やりたいこと」が何であるかを自覚しており、自分自身を存在充足に導く内的な”霊”の力を完全に信頼しているのだ。これが彼の”強さ”の真の源泉に外なるまい。だから「太陽の季節」の主人公がたたきのめしたのは決して古いモラルというようなものではなくて、むしろ自分を導く運命の星を見失って価値を外部にのみ求めるという、今日ひろく見られる衰弱した生き方そのものだったといった方がいいのである。むろんこれは主人公の生きている時代相への生理的な嫌悪感でもあっただろう。なぜなら、およそ日本の戦後という時代ほど、人々がこの種の内的確信を失いつくして、外的価値のみもとめてキョロキョロと空ろな眼つきで自信なげに周囲を眺めまわしていた時代はなかったといわざるを得ないからである。
 しかしそういう時代への批判という観点だけでこの作品のすべてを論じつくすことはできない。早い話が、あの有名なヨットの場面で竜哉の味わう”至福の瞬間”には、単なる個体としての自我をこえて、後に「巷の神々」ではっきり明言されるような宇宙的生命との交感ががすでに感じられるのである。竜哉が、この”至福の瞬間”以外の日常の生活でつねに苛立たしい怒りを感じて、父親の腹をなぐりつけたり、英子の位牌に灰を投げつけたりするのは、裏を返せば彼の存在充足の瞬間への願いがそれだけ強いからだとともいえるはずである。要するに私がここで指摘しておきたいのは、「全宇宙的な根源的な存在」(「巷の神々」)から人間が切り離され、その結果卑小な存在になってしまっている現状への怒りという、その後の石原氏が益々明瞭な言葉で述べるに到った文明批評を支えている衝動は、すでに出世作「太陽の季節」の主人公の怒りのなかにそのその発芽があり、後の多くの作品にそのまま継承されているという点である。

 

太陽の季節 補足①

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月14日(日)11時25分59秒
  レジメには載せられなかった、参考意見を載せておきます。

 〇江藤淳『石原慎太郎論』(2004年  作品社)  所収
”石原慎太郎論”(『中央公論』1959年12月号) より

 「太陽の季節」の主人公をかりたてている衝動は、「孤独」になりたい、という衝動である。
 《彼は唯そうしたかったから思いきり行なって満足するのだ。彼にとって大切なことは、自分が一番したいことを、したいように行なったかと言うことだった。何故(なぜ)と言う事に要はなかった。行為の後に反省があったとしても、成功したかしなかったかと言うことだけである。自分が満足したか否か、その他の感情は取るに足らない。それ故は”悪いことをした”と自らを咎めることが無かった。彼には罪を犯すことが有り得ないのだ。が人々はその行為の対象により彼を判断する。彼はその内容によって自分を捉える。》

  「行う」ことは拳闘の試合でも情事でもよい。それは「孤り切り」になることのできる行為であり、相手の選手や女のあたえる抵抗感が彼の「孤独」ー「自由」を確認させるからである。本来孤独であるはずの自分が、試みられ、抵抗をのりきることによって一層絶対化されていく。すべては許されていて、咎めるものはどこにもいない。いっさいの価値の基準は自分に内在している。したがって彼は批評や倫理の外にいる。かれは生活というものを拒否している。このような人物を、  一個の絶対者といってよいだろう。しかし、この絶対者には、異教の神々にふさわしい自己満足のかわりに、たえまない焦立ちがある。なぜだろうか?
 おそらく彼は自分の「孤独」が権威づけられることを求めているのに、その希求が裏切られつづけるからである。彼は「自由」であると主張するが、そのことを確認する基準は彼のなかにしかない。そうである以上、かれの「孤独」、彼の絶対性を他者に納得させることができない。彼の行動は無意味であることによって成立し、決して客観性をもつことがない。その意味で、この行動は子供の行動に似ている。子供の行動に客観性をあたえて正当化するのは母親の視線であるが、彼もまた自分の「孤独」を正当化してくれる超越的な価値を求めている。それが欠けているために空は碧く澄まない。彼の世界は「水中花」の堅い結晶をうるかわりに、混濁し、方向をうしなう。彼は絶対者であるが、卑小な絶対者にすぎないのである。
 「太陽の季節」を書いて文壇に登場したころ、石原氏は、主人公の焦立ちの解決を情事の陶酔に求めようとしていたかにみえる。
 《ヨットは次第に均衡を持ち直しながら、ゆらゆら揺れている。それは二人にとって嘗て知り得なかった、激しい陶酔と歓楽の揺籠ではなかたろうか。英子も竜哉も、その時始めて互いの体を通して、捜し求めていたあの郷愁のあてどころを見出したのだ。二人は時折、ふと動作を止めてじっと耳を澄ました。ヨットは相変わらず水を叩いて揺れている。それを確かめると、眼を覚まし自分の周りを見て満足し再び眠る赤ん坊のように、二人はもう一度夢を見始めるのだ。》56
 堀辰雄にならっていえば、この特権的な状態をZweisamkeitと呼んでもいいだろう。
 このZweisamkeitを抱いているのは夜の海の自然である。情事は主人公たちを「郷愁」のかなたにつれていく。それが一種の胎内感覚のようなものでることはことさらにいうまでもない。彼らは「孤り」ではないが、「孤り」でないことによって一層充実した「孤独」にひたって行く。恋人たちはお互いのなかに断絶した他者をではなく、自分の「郷愁」のあかしを発見している。彼らは天地を創造する異教の神々のように、特権的な絶対者の位置を感じえているのである。だが、陶酔が覚めると「愛」が生まれる。陶酔は自己充足であるが、「愛」はお互いの存在を相対化し、「自由」ではなくしてしまう。なぜなら、それは他者との間にしか生まれないもので、本来倫理的な性格の行為だからである。ここで、「孤独」を保証するための行為が、逆に人間のあいだに彼をつれもどし、彼を拘束するという背理が生じる。彼は直進しうるものと考えていた。が、気がついてみると、道はどこかで屈折し、彼は訣別してきたはずの生活のなかに帰りついている。ここでこのような背理のなぞに目をむけるなら、彼は正統的な文学作品の主人公になるだろう。しかし、「太陽に季節」の主人公は、ここにいたってもなお、ただ拘束を拒否しようとするだけである。
 彼のなかには「英子に対する残忍な習性」がよみがえり、主人公は恋人の存在を破壊することによって、束縛からのがれる。彼が自由である以上、この行為は罪ではない。しかし、この破局にたちいたっても、主人公はなんとたやすく「自由」になってしまうであろうか。恋人の葬式にのりこんで祭壇を破壊し、「貴方達には何もわかりゃしないんだ」という怒声を一座にあびせかける彼は、なにひとつできないことがない者の不毛な「自由」にうしろめたさを感じ、そう感じる自分を甘やかしている。彼は「自由」であるのに、権威づけられていないためその正当さをみとめられない。死んだ恋人は、「死」によって権威づけられ、写真の額ぶちのなかで完成された形式をえている。彼女こそが真の絶対者である。彼女の微笑は、「死」という無限の自由からみれば、彼の怒号がいかに無力であり、彼の「自由」がいかに卑小なものであるかを思い知らせずにはいない。主人公はこの事実を香炉を投げつけることによって、破壊しようとする。しかし、人は生きているものを破壊できても、死者を破壊することはできない。彼の怒りはその敗北をかえってうきださせるだけなのである。 15、16、17
 

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