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青年③

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 6月25日(日)12時17分40秒
  「九」章(回と言うべきか?)、自由劇場でのイプセンの劇の公演を見に行く場面である。自由劇場が会員制であり、二日間公演であったこと、劇場内の様子などが描かれていて興味深かった。ただし、上演されている「ジョン ガブリエル ボルクマン」のストーリーは読んでいてまったく頭に入らなかった。いよいよ、純一が偶然隣の席に座っていた法学者坂井の未亡人と遭遇するのである。奥さんは「凄いような美人で、鼻は高過ぎるほど高く、切目の長い黒目がちのめに、有り余る媚びがある」と直感し、だんだん奥さんに惹かれていく。純一が奥さんに惹きつけられるのが「パルフュウムの香」と「奥さんの謎の目」であるところが面白いですね。前の席に座っている令嬢二人の視線を気にしだいたとき、「純一は五官を持ってせずして、背後に受ける視線を感ずるのが、不愉快でならなかった」と思う。純一という人物は、「五官」と「運動」に強いこだわりを持った人物として描かれているようです。これはいったい何を意味しているのか?
「十」章は、奥さんの家に本を借りに行った時の顚末を日記形式で書いてある。その時の奥さんとの会話はまったく覚えていないのに、「音響」として「ある単語がいくつか耳の根についている」のであり、今ひとつ鮮明に記憶に残っているのは、「奥さんの挙動である。身体の運動である」。「こういう音響や運動の記憶が、その順序の不確かな割に、その一々の部分がはっきりとしてのこっているのである」。純朴な青年が美しい未亡人と二人きりになって、ボーッとしてしまって細部の記憶が飛んでしまったと言えばそれまでですが、私には、純一の「歩くこと」と「奥さんの運動」への関心とに何か関連があるように思えますし、奥さんに惹かれるのが嗅覚や視覚を通してであることも気になります。感想がやや散漫なものになってしまいましたが、このことは、先を読みながら整理、修正していきたいと思います。

http://氏、

 
 

漱石に対比すると

 投稿者:なし  投稿日:2017年 6月24日(土)20時15分29秒
  鴎外の場合は
イマジネーションや
創作という点で
あまり豊かではないようには思います。
事実を素材にした作品が多いのではないでしょうか

「青年」にしても
この時期
同じような展開の物語は
多数あったのだろうと
推測はされます

こまやかな分析をされる
忠先生を「敬愛」します

 

青年②

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 6月24日(土)12時05分46秒
編集済
  『青年』の主人公・純一が「歩く」描写が多いことが気になります。「八」章、拊石の講演会が終わった後医学生の大村と一緒に「歩く」シーン、「歩く」こととと「考える」ことの相関、何が意味を見いだせそうですね。漱石作品もそうですが、本作品もまた、作品の中の「地理」が明確に描かれていることも特徴かと思います。明確な地理感覚と明晰な論理的思考の相関とでも言えるのかもしれません。また、「七」章、拊石の講演で、イプセンやゾラだけでなくニイチエの思想にも触れられているのが面白いですね。「なんでも日本に持って来ると小さくなる。ニイチエも小さくなる。トルストイも小さくなる。」と拊石は語り、ニイチエの言葉を引用する、「地球はその時小さくなった。そしてその上に何者をも小さくする、最後の人類がひょこひょこ跳っているのである」と。鷗外作品に、ニイチエがでてきたのは意外でしたね。作品に文明批評や文芸批評が語られるのも鷗外作品の中では、異質なんでしょうか?  

青年

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 6月21日(水)18時55分23秒
  課題本、森鷗外『青年』(明治43年3月から44年8月まで雑誌「昴」に”鷗外”の著名で連載され、大正2年単行本として刊行された)を読み始める。昨今の政治情勢の右傾化の元凶が小泉純一郎からだと内心苦々しく思っていた矢先に、小説の主人公の名前が「小泉純一」だと書き出されていて思わず面食らってしまった。漱石の『三四郎』に刺激されて『青年』が書かれたらしいが、本作についての疑問の第一は、鷗外ともあろう常に独自の境地を歩んできた作家が、どうして漱石の二番煎じを意図したのか? である。「六」章から、文学青年の集まりの11月例会で、拊石(ふせき)の講演を瀨戸と一緒に聴きに行く件から話は面白くなっていきそうです。話に出てくる「鷗村」とは「鷗外」」のことでしょうか?いろいろモデルがありそうですが・・・・
こまめに疑問を書きたいと思います。
 

次の会合

 投稿者:なし  投稿日:2017年 6月 3日(土)16時33分3秒
  7月26日から25日火曜に変更です。
森鴎外「青年」よろしくお願いします!
 

初心

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月16日(日)23時45分23秒
  新年度が始まりましtが、「教える」ということの奥深さを痛感する日々です。最近疑問に思っていることがあります。「教えるための作品の読み」とは何だろう? 初心に返ってもう一度考えてみたくなりました。『詩の授業 理論と実践』(西郷竹彦・明治図書 1981年)を読みました。西郷氏は、長年、文芸教育研究協議会の会長として、学校で国語を教えることの「理論と実践」を牽引してきた、カリスマ的な教育者です。小学生の詩をどう教えるか、について実践形式で書かれている本書はなかなか刺激的でした。たまには初心にかえることも大事だと痛感しました。
 

若い人にも

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 8日(土)00時35分28秒
  若い人にも参加してもらいたいですね。読書会のお陰で、二次会を含めて、毎回読みの多様性を実感できて、徐々に自分勝手な読みに幅ができてきたように思います。これからもしぶとく読み続けましょう。

『国語通信』の文が筆者自身のものであることがわかりました。感謝。自作のテーマが読者に十分伝わったかどうか、評価の分かれるところかと思います。

大岡氏の詩文から「言葉の力」と日本の詩歌の豊饒さと「古今和歌集」の再評価、などなどいろいろ気付かせてもらえました。

 

こちらこそ感謝。

 投稿者:ますだまさこ  投稿日:2017年 4月 7日(金)10時44分45秒
  おかげさまで、発表の時点では曖昧だったものが少し、見えてきたように思いました。今後の小説の読み方においても、人称や人物造形、構成など問題にすべき点が多々あり、刺激的でした。

 ところで、『国語通信』の文章ですが、筆者自身、大城氏の文章だと思います。現物の『国語通信』そのものは手に入れていませんので、不確かで申し訳ありません。
岩波の文庫本『カクテル・パーティ』の解説に紹介されていた論文、岡本恵徳『「カクテル・パーティ」の構造』の脚注によると、大城氏が、教材化されるにあたって、自作品のテーマについてそのように語っているようです。不十分な紹介で、申し訳ありません。


影響を受けた人々が、この世を去っていかれるのは寂しいことですが、「言葉の力」を教えていただいたことに感謝しながら、若い世代に受け継いでいかなければなりませんね。文芸の会も、もっと若い人々が参加するようになるといいですね。

 

大岡信

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 6日(木)12時54分30秒
  『折々のうた』に親しみ、何度も授業でも取り上げてきました。切り口の新鮮さ、短文に収められた言葉の一つ一つに無駄がなく、しかも互いの言葉が響きあい、心地よいリズムを作り出していた鑑賞文、・・こんな文を書ける人は二度と現れないであろう。大岡信氏の訃報を聞き、そう思いました。正岡子規以来の通説を論破した『紀貫之』もよかったが、私は『うたげと狐心 大和歌篇』が大変感銘を受けました。日本の詩歌だけでなく文芸全般、さらに諸芸道いたるまで、そこにはかならずある種の「合す」原理が強く働いている、と言い、引き続き次のように述べていました。

 「合す」意志と「狐心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。私にはどうもそのように見える。見失ってはならないのは、その緊張、牽引の最高に高まっている局面であって、伝統の墨守でもなければ個性の強調でもない。(「序にかえて」より)

 日本の古典詩歌の「創造の場」の本質を見事に言い当てた論に、まさに目から鱗の興奮を覚えながら読み終えたことを思い出します。
 

さらに感謝

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 6日(木)01時21分10秒
編集済
  最初に訂正です。四人のうち,パーティー主催者の米兵は「ミラー」で、「ハリス」ではありません。私のメモがこんがらがっていました。陳謝。「なし」さんのご指摘のように訂正しようと思いましたら、私のコンピューターは時間がたつと「自分の投稿の編集・削除」のページが消えたしまうという難儀なことになっています。ここで訂正しておきます。私もそろそろ「恍惚」の域に近づいてきたかも、遠慮なく間違いの指摘をしてください、よろしくお願いします。

 マスダさん、早速、ご意見をお寄せくださり、有り難うございます。少しずつ読後のモヤモヤが晴れてきたような気がします。読書会の皆様にはいつも刺激をいただくばかりで、感謝!

 マスダさんのご意見を伺いながらわかったことは、、この小説では「対話」が欠如しているということです。もちろん、「対話」のない小説も多いのですが、この作品には「対話」が必要だったのだと思います。
 前章では、四人の会話は、面白いテーマを取り上げながらも、カクテル・パーティーの場を盛り上げるための、当たり障りのない雑談でした。(「対話」とは、「向かいあって対等な立場で話をすること」という意味ですから、「対等の立場」が保証されていない、当時の沖縄では「真の対話」が成立しないのはやむを得ないことだったでしょう)。
 後章では、テーマを深めるためには「語り手」と「お前」との「対話」(自問自答という形での激しい内部葛藤)、「お前」と「娘」「妻」との「対話」が必要不可欠なものであったはずなのに(「対話」こそが「お前」が孤立から抜け出る唯一の方法であったはずなのに)、「語り手」の一方的な独白のようになってしまっていました。後章の主役は「お前」なのか、「語り手」なのか、こんがらがってしまいますね。これは二人称小説の限界では、というマスダさんのご指摘はとても重要だと思います。大変参考になりました。後章での会話文が、「 」での表記でなくなっていることも、このことと関係があるかもしれませんね。

『国語通信』の紹介ありがとうございました。
「加害者に対する絶対の不寛容というテーマをうちだした」という評者の指摘には、どうも引っかかりますね。「お前」がそこまで明確に「加害者に対する絶対の不寛容」を決意した、と書かれていましたっけ?

「新聞人」を英国流に「プレスマン」と読ませたところに、米国への静かな抵抗をこめたのかも・・・まあ、そこまで深読みしなくても・・とは思いますが。たしかに馴染みのない読み方ですものね。

 読書会に参加できなくて(泡盛が飲めなくて)とても残念でしたが、いろいろ考えさせられる題材をたくさん持っていた作品を取り上げていただいたことに、あらためて感謝いたします。

 

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