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初心

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月16日(日)23時45分23秒
  新年度が始まりましtが、「教える」ということの奥深さを痛感する日々です。最近疑問に思っていることがあります。「教えるための作品の読み」とは何だろう? 初心に返ってもう一度考えてみたくなりました。『詩の授業 理論と実践』(西郷竹彦・明治図書 1981年)を読みました。西郷氏は、長年、文芸教育研究協議会の会長として、学校で国語を教えることの「理論と実践」を牽引してきた、カリスマ的な教育者です。小学生の詩をどう教えるか、について実践形式で書かれている本書はなかなか刺激的でした。たまには初心にかえることも大事だと痛感しました。
 
 

若い人にも

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 8日(土)00時35分28秒
  若い人にも参加してもらいたいですね。読書会のお陰で、二次会を含めて、毎回読みの多様性を実感できて、徐々に自分勝手な読みに幅ができてきたように思います。これからもしぶとく読み続けましょう。

『国語通信』の文が筆者自身のものであることがわかりました。感謝。自作のテーマが読者に十分伝わったかどうか、評価の分かれるところかと思います。

大岡氏の詩文から「言葉の力」と日本の詩歌の豊饒さと「古今和歌集」の再評価、などなどいろいろ気付かせてもらえました。

 

こちらこそ感謝。

 投稿者:ますだまさこ  投稿日:2017年 4月 7日(金)10時44分45秒
  おかげさまで、発表の時点では曖昧だったものが少し、見えてきたように思いました。今後の小説の読み方においても、人称や人物造形、構成など問題にすべき点が多々あり、刺激的でした。

 ところで、『国語通信』の文章ですが、筆者自身、大城氏の文章だと思います。現物の『国語通信』そのものは手に入れていませんので、不確かで申し訳ありません。
岩波の文庫本『カクテル・パーティ』の解説に紹介されていた論文、岡本恵徳『「カクテル・パーティ」の構造』の脚注によると、大城氏が、教材化されるにあたって、自作品のテーマについてそのように語っているようです。不十分な紹介で、申し訳ありません。


影響を受けた人々が、この世を去っていかれるのは寂しいことですが、「言葉の力」を教えていただいたことに感謝しながら、若い世代に受け継いでいかなければなりませんね。文芸の会も、もっと若い人々が参加するようになるといいですね。

 

大岡信

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 6日(木)12時54分30秒
  『折々のうた』に親しみ、何度も授業でも取り上げてきました。切り口の新鮮さ、短文に収められた言葉の一つ一つに無駄がなく、しかも互いの言葉が響きあい、心地よいリズムを作り出していた鑑賞文、・・こんな文を書ける人は二度と現れないであろう。大岡信氏の訃報を聞き、そう思いました。正岡子規以来の通説を論破した『紀貫之』もよかったが、私は『うたげと狐心 大和歌篇』が大変感銘を受けました。日本の詩歌だけでなく文芸全般、さらに諸芸道いたるまで、そこにはかならずある種の「合す」原理が強く働いている、と言い、引き続き次のように述べていました。

 「合す」意志と「狐心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。私にはどうもそのように見える。見失ってはならないのは、その緊張、牽引の最高に高まっている局面であって、伝統の墨守でもなければ個性の強調でもない。(「序にかえて」より)

 日本の古典詩歌の「創造の場」の本質を見事に言い当てた論に、まさに目から鱗の興奮を覚えながら読み終えたことを思い出します。
 

さらに感謝

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 6日(木)01時21分10秒
編集済
  最初に訂正です。四人のうち,パーティー主催者の米兵は「ミラー」で、「ハリス」ではありません。私のメモがこんがらがっていました。陳謝。「なし」さんのご指摘のように訂正しようと思いましたら、私のコンピューターは時間がたつと「自分の投稿の編集・削除」のページが消えたしまうという難儀なことになっています。ここで訂正しておきます。私もそろそろ「恍惚」の域に近づいてきたかも、遠慮なく間違いの指摘をしてください、よろしくお願いします。

 マスダさん、早速、ご意見をお寄せくださり、有り難うございます。少しずつ読後のモヤモヤが晴れてきたような気がします。読書会の皆様にはいつも刺激をいただくばかりで、感謝!

 マスダさんのご意見を伺いながらわかったことは、、この小説では「対話」が欠如しているということです。もちろん、「対話」のない小説も多いのですが、この作品には「対話」が必要だったのだと思います。
 前章では、四人の会話は、面白いテーマを取り上げながらも、カクテル・パーティーの場を盛り上げるための、当たり障りのない雑談でした。(「対話」とは、「向かいあって対等な立場で話をすること」という意味ですから、「対等の立場」が保証されていない、当時の沖縄では「真の対話」が成立しないのはやむを得ないことだったでしょう)。
 後章では、テーマを深めるためには「語り手」と「お前」との「対話」(自問自答という形での激しい内部葛藤)、「お前」と「娘」「妻」との「対話」が必要不可欠なものであったはずなのに(「対話」こそが「お前」が孤立から抜け出る唯一の方法であったはずなのに)、「語り手」の一方的な独白のようになってしまっていました。後章の主役は「お前」なのか、「語り手」なのか、こんがらがってしまいますね。これは二人称小説の限界では、というマスダさんのご指摘はとても重要だと思います。大変参考になりました。後章での会話文が、「 」での表記でなくなっていることも、このことと関係があるかもしれませんね。

『国語通信』の紹介ありがとうございました。
「加害者に対する絶対の不寛容というテーマをうちだした」という評者の指摘には、どうも引っかかりますね。「お前」がそこまで明確に「加害者に対する絶対の不寛容」を決意した、と書かれていましたっけ?

「新聞人」を英国流に「プレスマン」と読ませたところに、米国への静かな抵抗をこめたのかも・・・まあ、そこまで深読みしなくても・・とは思いますが。たしかに馴染みのない読み方ですものね。

 読書会に参加できなくて(泡盛が飲めなくて)とても残念でしたが、いろいろ考えさせられる題材をたくさん持っていた作品を取り上げていただいたことに、あらためて感謝いたします。

 

二人称

 投稿者:ますだまさこ  投稿日:2017年 4月 5日(水)20時59分57秒
  こんばんは。
「疎隔感」についての詳細な分析、ありがとうございました。人物構成が図式的すぎて類型に陥り、うまく活かされていないという指摘は、全くその通りだと思います。後章の「お前」という二人称は確かに実験的で意欲的な試みではありますが、結果として、小説に求められる「描くこと」(描写)ではなく、「語り」(対話にもなりえず独白に近いもの)になってしまったようです。それは、二人称小説そのものの限界性、きちんと調べたわけではありませんが、ほとんど存在しない(見かけない)理由にも関係するのでしょうか。「語り手」が「お前」と呼ぶ時、呼びかけられるのは一人(この場合は前章の「私」)となり、「語り手」の立ち位置が不安定であれば、「お前」の心中の変化も他の登場人物、特に対役として重要な「孫氏」も深く描ききることは難しいでしょう。二人称で、人物の心理を描くという方法論の問題点もありそうです。
大城氏が、後年、戯曲形式で同じテーマを取り上げたのは、作者自身も、小説「カクテル・パーティー」の問題点(二人称の限界性、あるいは書ききれなかった点)を意識されていたのかもしれません。

国語教材としてですが、筑摩書房の『国語通信』に以下のような文章があるということは、ある時期、教科書に掲載されたということだろうという話が会で出ました。教科書そのものは未確認ですが。

「カクテル・パーティー」は国際親善の欺瞞性をあばくことに出発しながらも、アメリカの犯罪を見て過去における日本の中国への犯罪を思いだし『加害者としての自分をも相手をも同時に責めるべきだ』と、加害者に対する絶対の不寛容というテーマをうちだした(大城立裕 「沖縄文学の可能性」『国語通信』筑摩書房 昭和60年7.8月号)

プレスは新聞社など報道全般を指すようですが、プレスマンという表現があまり一般的ではないような。
そもそも「新聞人」というのも言葉としてはありますが、あまり使わないような気がします。今なら「報道関係者」でしょうか。
 

感謝

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 4日(火)03時51分36秒
編集済
  読書会で話された意見を読み、いろいろな話題が出されたことに驚いています。読解の大変参考になりました。大城氏の「持続する志」には敬服しますね。ただし、作家が「書き続けること」を支えているのは読者です。我々読者が「読み続けること」が非常に大事だと思います。

 『カクテル・パーティー』を読み終えた後の「疎隔感」はいったいどこから来るのか?についてもう少し考えてみました。

 「私」を含む四人の人物設定の巧みさは認めるものの、やや人物設定が図式的であり、主題の展開を端的に読者に伝えようとしたあまりに、四人の人物像がやや類型化しすぎたものになってしまったことに起因するのではないか?

 「沖縄」(私)と政治的、経済的、文化的に最も深い結びつきのある、「米国」(ハリス)、「中国」(孫)、「日本(本土)」(小川)を選んだのは、沖縄の歴史の特性と沖縄が置かれている複雑な政治的状況を象徴的に描くのに大変効果的な人物設定であったと思います。また、不当な事件を告発しようとする「私」をサポートできる最適任者であるはずの職業ー「米軍CID(陸軍犯罪捜査司令部)」と「弁護士」と「新聞人」を設定したのも見事だと思います。しかも、彼らはそれぞれ自分の置かれている立場から積極的な協力ができずに、「私」に「現実的な対応(あきらめ)」を進言する。それは、軍規に忠誠を求められるハリス氏は言うに及ばず、孫氏は中共に追われて沖縄に借り暮らし同然の生活をしている弱みを持ち、小川氏は敗戦国という弱みで積極的には発言ができなかったからです。それぞれ自分の「職業」を「私=沖縄」のために生かし切ることができなかったがゆえに、「私=沖縄」を孤立させてしまう(キツイ表現をすれば、見捨ててしまう)しまうことになる。作者は、人物設定をこの四人に絞ることによって、「私=沖縄」が置かれているこうした過酷な状況を端的に描こうと意図したのでしょう。しかし、作者の作家としての技量はたいしたものだと評価しつつも、四人の人物設定があまりにもハマりすぎて、人物描写がやや類型的すぎたのが残念に思われます。人物像がやや平板で、深みがない。そうはいっても、他の二人に比べて、孫氏は衝撃的な過去を持っており、大変印象に残る人物として描かれていますし、「私」の内部矛盾(強姦について加害者側としての無関心と被害者側としての怒り)を鋭く突く役割として設定したのもよかったとは思いますが、私にはこの挿話があまりにも唐突すぎて違和感を感じました。しかもこの重要なテーマが作品の中で深化されることなく終わってしまったところにもの足りなさを感じました。読者はこんな疑問を持ったのではないでしょうか。孫氏の指摘は鋭いが、妻子を置き去りにして中共から逃げてきたあなたに、「私」を責める資格はあるのか? と。孫氏の心の深い傷をもっと描くべきではなかったのか。物語には「主役」と「対役(主人公と出会い、主人公に何らかの変化をもたらす人物)」で構成されていると言われています。「対役」は孫氏であるはずですが、孫氏の指摘で、「私」がどう変化したのか、もっと描くべきではなかったか。卑劣な犯罪についての「日本兵」としての無関心と「沖縄人」としての怒り、・・これは自己矛盾と言うよりも、引き裂かれた自我、アイデンティティーの喪失であったと思われます。そこまで、「語り手」が「私」の内面をあぶり出すことに成功したのだろうか。少し疑問に思いました。
 前章での四人の会話は、パーティーの雰囲気を壊さない程度の、あたりさわりのない品の良い雑談でしかありませんし、後章では「話し手」とが「お前」に一方的に語りかけるモノローグであり、後の三人は「お前」を際立たせるための端役でしかありません。せっかく四人のタイプの人物をそろえながら、相互の絡みが不十分であったように思えます。四人の関係性が「虚妄」のまま終わっています。
 短編だからしかたがないのか・・・だったら、人物を絞って描いた方がよかったのではないか、もしくは第五の人物=虐げられてきた沖縄の人たち(もちろん、娘を含む)をしっかりと描く、彼らと「私=沖縄のインテリ層」との関わりを描くのも必要ではなかったか。そして、何よりも、読書会でも話題になったように、被害者の視点、女性の視点がこの作品には欠けています。娘の事件を男の視点(「語り手」も男性・性でしょう)だけで語られたことへも違和感。作者は、「四人の人物設定」に囚われすぎて、少々技巧に走りすぎたのではないかしら・・・。ただし、人物の類型化を取り上げた三島由紀夫の芥川賞選評ほどにはこの作品を酷評するつもりはありませんが・・・。

 作品を読み終わった後に、読者である私は、「語り手」からも「お前」からも心が離れてしまったように感じました。「語り手」の「立ち位置」がよく分からないままに作品が終わってしまったという感じでしょうか。「語り手」よ!お前こそいったい何者なんだ? *私がここで「お前」という二人称を使うと、作品中のニュアンスよりはキツイものになっているような気がします。


 細かいことですが、小川氏の職業である「新聞人」に「プレスマン」というルビを振ってありますが、こういう言い方の方が一般的なんでしょう?
「国語教材として」とはどんな内容であったのでしょうか?機会があればお聞きしたいところですね。





 

大急ぎで、不十分ですが。

 投稿者:ますだまさこ  投稿日:2017年 4月 2日(日)10時50分29秒
  「なしさん」 いつもながらお心遣い、ありがとうございます。
そうですよね。訂正、編集できるんですよね(笑)こんな私ですが、
見捨てず、今後ともよろしくお願いします。

会で話し合われたこと(思いつくままに)

 ・芥川賞 選評者はかつての文壇の大御所、全員、男性、故人? それに対して、
91才、大城立裕のエネルギーのもの凄さ

 ・人物関係 中国人 孫を登場させることの効果 ややこしい・焦点が曖昧
 ・複雑化  沖縄問題の持つ複雑性  ・国家と個人

 ・沖縄在住のインテリ層  「仮面の論理」で生きることを是としているが、自身を脅かす問題に直面すると露呈される脆弱さ

 ・参加者自身の体験から  友人(と思っていた)たちからの拒否、または消極的な援助に対する主人公の反応 →認識の甘さ?

 ・国語教材として  作者の言葉の紹介  どの部分が抜粋されているのか?

 ・テーマの普遍性  分断される沖縄人のアイデンティティの問題か、さらに
          普遍化されうるか。近著「辺野古遠望」新潮2017.2も参考にして

 ・戯曲「カクテル・パーティ」との関係
  小説の種明かしにもなっていて、混同してしまいややこしくなるが、作者のこだわりも感じる。娘(洋子)の「声」が与えられていることは救いになるのではないか。
   女性の描き方   第一次被害は女性   男性側の独りよがり

 ・パーティーの話題 細かく分析すれば面白い点があるのでは。
  沖縄料理は「貧しさ」から生まれたもの? 私はとてもおいしくいただきました。

 ざっと挙げましたが、やはり酔っぱらっていたので、補足などお願いします。

 最後に

 「お前」という人称について

 発表者(ますだ)は、「お前」という人称を、「主観」の世界で安易に満足している前章の「私」に対して、その独善性を糾弾するもの、「客観化」(時間・空間的)する視点だととらえて、「お前」の視点にすることで、「お前」の立ち位置が俯瞰され、独善性などの抱える問題点があぶり出されると考えていました。また、前章と後章の明確な対照性、伏線を仕掛け、それらをすべて顚倒させて、落差を際立たせるためには、人称の変化は、実験的ではあるが意欲的な試みだと思われました。また、「お前」とすることで、読者自身も鋭く問いかけられるような効果があるのではないでしょうか。

 しかし、忠さんの

 「お前」という言葉は、もっとも親しい人に対して親愛の情を込めて使う時の二人称であり、作者にとってはもっとも身近で、愛着のある言葉ではなかろうか、と。つまり、作者にとっては「お前」という二人称は、相手を問い詰め、非難するのにはもっとも不向きな言葉ではなかったか、と。(以下省略)

 の指摘は斬新で、全く考えつかなかったものです。確かに英語の「I」と「YOU」と日本語の「私」と「お前」の距離は異なりますね。この問題は興味深く、人称については個人的にも興味があるので、もう少し考えさせてください。ただ、仰るように、後章、特に後半部は読者にとっては「取り残されて、ついて行けない」感覚、齟齬というか疎隔感のようなものを感じます。また、後半部の戯曲風の体裁になっている部分にも違和感がありながら、そういう表現形式をとらざるをえない作者のありようも推測できます。また、「お前」が繰り返し語っている部分(p228 文庫本)

2行目ただ、お前はまだ気づいてはいなかったが、娘はなんのために~。
10行目、お前はまだそれに気づいていない。

も印象的です。

結局のところ、作者の強い思いと表現のバランスが崩れていて、小説としての完成度においては評価が難しいと思われますが、その問題も「沖縄文学」が抱える「政治的なもの」と小説という表現、あるいは、文化問題ととらえるかということにも関連しているのかとも思われます。とりあえず、思いつくままに。
 

お前

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年 4月 1日(土)02時53分14秒
編集済
  読書会の発表お疲れ様でした。泡盛がさぞ美味しかったことでしょう。盛会であったようですね。
私は木曜に帰ってきました。東京は桜がチラホラ咲き始めていました。春は別れと出会いの季節です。50歳をすぎてからは、満開の桜並木を歩くことがなんとなく億劫になり、三分咲きぐらいの咲き始めの桜を眺めたり、山里のはずれに一本だけ咲いている老木の桜を眺めるのが好きになりました。花の好みも年とともに変わってくるのですね。
 大城立裕氏の短編集『レールの向こう』(2015年・新潮社)に収められている表題作の短編「新潮」(2014年五月号・発表)を読みました。作者初の私小説だそうです。脳梗塞で倒れた老妻が術後、リハビリ病院に転院することになった。私は記憶力や判断力があやふやになってきている妻の先行きを心配する。妻の病室からはモノレールが走っているのが見える。レールの向こうには最近訃報が届いたばかりの作家が住んでいたことを思い出した私は、レールの向こうの死者の霊(まぶい)と妻の霊(まぶい)とが慰め合い、それが妻の快癒を願うものになるかもしれないと考える。知人の死と妻の頼りなげな生を静かに受け止めていく作家の老境を淡々と描いた作品です。
 私がこの作品を読んで一番印象に残ったことは、妻の様子を描写するのに「お前」という二人称を用いていることです。『カクテル・パーティー』の次に、この作品を読んだものですから、よけいに「お前」という二人称が気になったのでしょう。もちろん二人称の使い方は両者でずいぶん異なります。この作品では、長年連れ添った夫の私が妻のことを言ったものであり、古い世代の夫婦間ではけっして珍しいことではありません。『カクテル・パーティー』の後章では、語り手(米国の統治下の沖縄での生き方について、緩やかな融合を良しとする自分と、それに批判的な自分との葛藤ー米兵による娘の強姦事件をキッカケに顕在化した両者の分裂、自分自身の言動を冷静に見つめるもう一人の自分、を指すのでは?)が主人公の「私」への呼びかけの言葉でした。初読、再読共に、詰問口調のきついニュアンスをともなった「お前」という二人称が、主人公の内部葛藤と米兵への告発を決意することによって孤立していく主人公の苦悩とを巧みに表現していると感じました。しかし、この度、「レールの向こう」を読んで私はこう考えました。「お前」という言葉は、もっとも親しい人に対して親愛の情を込めて使う時の二人称であり、作者にとってはもっとも身近で、愛着のある言葉ではなかろうか、と。つまり、作者にとっては「お前」という二人称は、相手を問い詰め、非難するのにはもっとも不向きな言葉ではなかったか、と。そのような観点から、『カクテル・パーティー』をとらえ直してみると、後章で「お前」という二人称を用いたことによって、「語り手」と「対象」との距離感が曖昧になり、この作品のラストで詰めが甘くなり(対象との距離を詰めすぎて)、結果的に作品の感動を半減させてしまったのではないかと思えてきました。娘が強姦されていたことも知らずに、パーティーでいい気分になって帰宅した「私」を詰る所から始まる後章の緊迫感は残念ながらラストまで持続しませんでした。それは、作品のラストにあまりにも不自然な描写があったからです。「私」が告発を決意するに至ったのは、戦時中に中国大陸で日本兵が中国人女性を強姦したことに日本兵の一人として無関心であったことへの罪悪感や後悔の念があったからではないかという描写があまりにも唐突すぎて、とってつけたような印象を読者に抱かせはしなかったか。また、娘や妻の意見を聞くこともなく、告発を強く決意していく「私」の感情の高まりが、あまりにも独りよがりすぎて、読者をしらけさせてしまったのではないか。「私」の苦悩をいちばん分かりあえるのは、長年虐げられ続けてきた沖縄の人々ではないのか、となぜ「私」を問い詰められなかったのか。(ただし、このような「私」の人物設定の中に、沖縄のインテリ層の脆弱さへの作者の批判を読みとることも可能かもしれませんが・・・)。
 このようなラストの不自然さ、詰めの甘さは、「語り手」が「私」を見つめる甘さの表れであり、それは親愛の情が勝ちすぎた「お前」という二人称を作者が用いたことの必然的な帰結でもあったように思われます。
 以上、『カクテル・パーティー』の私の感想としてまとめてみました。
 同、短編集に収められている「天女の幽霊」も面白く読みました。沖縄の新都心の空き地の土地購入をめぐって、二人の巫女(ゆた)が競い合うという、沖縄ならではのテーマを取り上げた物語です。一人の巫女は、あの土地には幽霊が取り憑いているから買うのは止せと買い主に迫る、困った買い主は友人に相談する。友人は馴染みの居酒屋のママが巫女でもあるので、幽霊が出ないように抑えてほしいと依頼する。これはフィクションですが、実際に土地の売買等に巫女が暗躍するという話が今でもあるそうです。沖縄ならではなおテーマですね。「巫女」は東北と奄美諸島にだけに残る風習だというのも不思議ですね。
 

ご無事だったのですね

 投稿者:なし  投稿日:2017年 3月31日(金)16時17分7秒
  心配しておりました。

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