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太陽の季節 補足②

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月14日(日)11時28分22秒
  作品についての、他の評論家の意見を頻用しておきます。

〇『現代の文学 26 石原慎太郎』(講談社 1973年) 所収
 ”巻末作家論 「存在充足への苦闘」 ”入江隆則の文章より

 改めて述べるまでもないことだが「太陽の季節」という小説の中心のかなめは主人公の竜哉と英子とが月夜のヨットの上で味わう神話的かつ神秘的な”至福の瞬間”にあった。二人はこの時彼等の存在の完全な開花と愛の成就とを味わい、その他のあらゆる挿話はこの開花を準備しそこに至るまでの意識的・無意識的な努力か、あるいは開花の後の退潮にすぎなかったといってもいいほどである。この”至福の瞬間”が狭義の意味での性的満足でなかったのはいうまでもない。それは続いて書かれた「処刑の部屋」でも、まったく異なった形で、やはり自分自身の存在の完全な開花を願って苦闘する一人の主人公の姿が、力動感にあふれた文体で定着されているのを知れば思いなかばにすぎるだろう。しかも、同じような”存在充足”への意志は石原氏のその後のほとんどすべての作品のなかにさまざまのヴァリエーションをなして感じられるといっていい。(略)
  私は最近、氏の出世作「太陽の季節」を何年ぶりかで読み返して、それがあまりにも健全ですがすがしく青年らしい含羞にさえあふれた作品であるのを知って、改めて驚かざるを得なかった。これが発表当時、古い道徳に反逆し戦後の解放を称える作品として受取られたということは、十数年後の今日からみるとすでにほとんどリアリティの感じられぬ遠い出来事だという気さえしてくる。
 たとえばこの小説を読みはじめて直ちに強く印象づけられるのは、竜哉という主人公が体現している、あらゆるものに屈服しない内的な”強さ”なのだが、この”強さ”が一体何に由来するのかは一度も真面目に考えられたためしはないのではあるまいか。彼は拳闘でリングに叩きのめされても「一種驚愕の入り混じった快感」を味わうにすぎないし、「手強い相手を喘ぎながら睨(ね)めつける時」も「ギラギラするような喜び」を感じ「必ず嬉しそうに笑う」っているという。また彼は「玄人」や「素人」の多数の女を相手に大人顔負けの「交渉」を持つが、彼の本能を外側から規制しようとするあらゆる力を彼が意に介しないのは、それだけ内的な本能への信頼が強いからであろう。つまり彼ははっきり自分の「やりたいこと」が何であるかを自覚しており、自分自身を存在充足に導く内的な”霊”の力を完全に信頼しているのだ。これが彼の”強さ”の真の源泉に外なるまい。だから「太陽の季節」の主人公がたたきのめしたのは決して古いモラルというようなものではなくて、むしろ自分を導く運命の星を見失って価値を外部にのみ求めるという、今日ひろく見られる衰弱した生き方そのものだったといった方がいいのである。むろんこれは主人公の生きている時代相への生理的な嫌悪感でもあっただろう。なぜなら、およそ日本の戦後という時代ほど、人々がこの種の内的確信を失いつくして、外的価値のみもとめてキョロキョロと空ろな眼つきで自信なげに周囲を眺めまわしていた時代はなかったといわざるを得ないからである。
 しかしそういう時代への批判という観点だけでこの作品のすべてを論じつくすことはできない。早い話が、あの有名なヨットの場面で竜哉の味わう”至福の瞬間”には、単なる個体としての自我をこえて、後に「巷の神々」ではっきり明言されるような宇宙的生命との交感ががすでに感じられるのである。竜哉が、この”至福の瞬間”以外の日常の生活でつねに苛立たしい怒りを感じて、父親の腹をなぐりつけたり、英子の位牌に灰を投げつけたりするのは、裏を返せば彼の存在充足の瞬間への願いがそれだけ強いからだとともいえるはずである。要するに私がここで指摘しておきたいのは、「全宇宙的な根源的な存在」(「巷の神々」)から人間が切り離され、その結果卑小な存在になってしまっている現状への怒りという、その後の石原氏が益々明瞭な言葉で述べるに到った文明批評を支えている衝動は、すでに出世作「太陽の季節」の主人公の怒りのなかにそのその発芽があり、後の多くの作品にそのまま継承されているという点である。

 
 

太陽の季節 補足①

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月14日(日)11時25分59秒
  レジメには載せられなかった、参考意見を載せておきます。

 〇江藤淳『石原慎太郎論』(2004年  作品社)  所収
”石原慎太郎論”(『中央公論』1959年12月号) より

 「太陽の季節」の主人公をかりたてている衝動は、「孤独」になりたい、という衝動である。
 《彼は唯そうしたかったから思いきり行なって満足するのだ。彼にとって大切なことは、自分が一番したいことを、したいように行なったかと言うことだった。何故(なぜ)と言う事に要はなかった。行為の後に反省があったとしても、成功したかしなかったかと言うことだけである。自分が満足したか否か、その他の感情は取るに足らない。それ故は”悪いことをした”と自らを咎めることが無かった。彼には罪を犯すことが有り得ないのだ。が人々はその行為の対象により彼を判断する。彼はその内容によって自分を捉える。》

  「行う」ことは拳闘の試合でも情事でもよい。それは「孤り切り」になることのできる行為であり、相手の選手や女のあたえる抵抗感が彼の「孤独」ー「自由」を確認させるからである。本来孤独であるはずの自分が、試みられ、抵抗をのりきることによって一層絶対化されていく。すべては許されていて、咎めるものはどこにもいない。いっさいの価値の基準は自分に内在している。したがって彼は批評や倫理の外にいる。かれは生活というものを拒否している。このような人物を、  一個の絶対者といってよいだろう。しかし、この絶対者には、異教の神々にふさわしい自己満足のかわりに、たえまない焦立ちがある。なぜだろうか?
 おそらく彼は自分の「孤独」が権威づけられることを求めているのに、その希求が裏切られつづけるからである。彼は「自由」であると主張するが、そのことを確認する基準は彼のなかにしかない。そうである以上、かれの「孤独」、彼の絶対性を他者に納得させることができない。彼の行動は無意味であることによって成立し、決して客観性をもつことがない。その意味で、この行動は子供の行動に似ている。子供の行動に客観性をあたえて正当化するのは母親の視線であるが、彼もまた自分の「孤独」を正当化してくれる超越的な価値を求めている。それが欠けているために空は碧く澄まない。彼の世界は「水中花」の堅い結晶をうるかわりに、混濁し、方向をうしなう。彼は絶対者であるが、卑小な絶対者にすぎないのである。
 「太陽の季節」を書いて文壇に登場したころ、石原氏は、主人公の焦立ちの解決を情事の陶酔に求めようとしていたかにみえる。
 《ヨットは次第に均衡を持ち直しながら、ゆらゆら揺れている。それは二人にとって嘗て知り得なかった、激しい陶酔と歓楽の揺籠ではなかたろうか。英子も竜哉も、その時始めて互いの体を通して、捜し求めていたあの郷愁のあてどころを見出したのだ。二人は時折、ふと動作を止めてじっと耳を澄ました。ヨットは相変わらず水を叩いて揺れている。それを確かめると、眼を覚まし自分の周りを見て満足し再び眠る赤ん坊のように、二人はもう一度夢を見始めるのだ。》56
 堀辰雄にならっていえば、この特権的な状態をZweisamkeitと呼んでもいいだろう。
 このZweisamkeitを抱いているのは夜の海の自然である。情事は主人公たちを「郷愁」のかなたにつれていく。それが一種の胎内感覚のようなものでることはことさらにいうまでもない。彼らは「孤り」ではないが、「孤り」でないことによって一層充実した「孤独」にひたって行く。恋人たちはお互いのなかに断絶した他者をではなく、自分の「郷愁」のあかしを発見している。彼らは天地を創造する異教の神々のように、特権的な絶対者の位置を感じえているのである。だが、陶酔が覚めると「愛」が生まれる。陶酔は自己充足であるが、「愛」はお互いの存在を相対化し、「自由」ではなくしてしまう。なぜなら、それは他者との間にしか生まれないもので、本来倫理的な性格の行為だからである。ここで、「孤独」を保証するための行為が、逆に人間のあいだに彼をつれもどし、彼を拘束するという背理が生じる。彼は直進しうるものと考えていた。が、気がついてみると、道はどこかで屈折し、彼は訣別してきたはずの生活のなかに帰りついている。ここでこのような背理のなぞに目をむけるなら、彼は正統的な文学作品の主人公になるだろう。しかし、「太陽に季節」の主人公は、ここにいたってもなお、ただ拘束を拒否しようとするだけである。
 彼のなかには「英子に対する残忍な習性」がよみがえり、主人公は恋人の存在を破壊することによって、束縛からのがれる。彼が自由である以上、この行為は罪ではない。しかし、この破局にたちいたっても、主人公はなんとたやすく「自由」になってしまうであろうか。恋人の葬式にのりこんで祭壇を破壊し、「貴方達には何もわかりゃしないんだ」という怒声を一座にあびせかける彼は、なにひとつできないことがない者の不毛な「自由」にうしろめたさを感じ、そう感じる自分を甘やかしている。彼は「自由」であるのに、権威づけられていないためその正当さをみとめられない。死んだ恋人は、「死」によって権威づけられ、写真の額ぶちのなかで完成された形式をえている。彼女こそが真の絶対者である。彼女の微笑は、「死」という無限の自由からみれば、彼の怒号がいかに無力であり、彼の「自由」がいかに卑小なものであるかを思い知らせずにはいない。主人公はこの事実を香炉を投げつけることによって、破壊しようとする。しかし、人は生きているものを破壊できても、死者を破壊することはできない。彼の怒りはその敗北をかえってうきださせるだけなのである。 15、16、17
 

感謝

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月11日(木)18時01分22秒
  読書会の発表も終わりほっとしています。終わってみれば、己の読みの浅さを反省し、恥じ入るばかりです。二次会でようやくいろんな意見が飛び交い、有意義の時間を過ごさせていただきました。参加者に感謝! ムラタさんのご意見に納得。英子に本をぶつけられて抵抗された場面と英子の遺影の中の笑顔に香炉をぶつけた、竜哉の抵抗を重ねて読むというのは、すばらしいですね。  

genから

 投稿者:なし  投稿日:2018年 1月 9日(火)23時34分47秒
  『太陽の季節』は衝撃でした。登場人物たちは、倫理道徳的に許しがたい行動をそれぞれに取っており自由奔放に見えるのですが、心のどこかで他者からの「抵抗」を求めています。象徴的な場面は、竜哉が障子紙から陰茎を突き出した際に英子が本を投げつけた抵抗。竜哉はそこに快感と英子への愛情を確認します。
そして、この場面はクライマックスで英子の位牌に竜哉が香炉を投げつける行為と重なります。2人(当時の若者)は本気で抵抗してくる他者を求めながらも、自分の目的や自信の無さから「素直に愛すること」ができない。あえて目立つ粗暴行為をすることで他者から「抵抗」という形の愛情を感じようとする。竜哉が最後に「貴方たちには何もわかりはしない」と言って香炉を投げたのは、英子が本当に求めたものが抵抗という愛情の手ごたえだと思ったからではないでしょうか。
 

背徳文学

 投稿者:忠さん  投稿日:2018年 1月 7日(日)23時42分1秒
編集済
   石原慎太郎という人は、才能を持ったプロデューサーであると思います。作家「石原慎太郎」をプロデュースし、政治家「石原慎太郎」をプロデュースして、どちらの分野でも「石原慎太郎」というブランドを世に知らしめることに成功しています。スターとはどんな役を演じてもその人でありつづける人のことを言うそうですが、彼も小説を書いても「石原慎太郎」、政治家であっても「石原慎太郎」なのですね。だから、作品の評価がやりにくいのです。金太郎飴のように、どこを切っても「石原慎太郎」が出てきます。課題本が「背徳文学」であったのか?などおおいに議論してください。

レジメでは取り上げられなかった記事を載せます。
〇中村真一郎の作品評。
『この百年の小説ー人生と文学とー』(中村真一郎・新潮選書 昭和49年) これは「新潮日本文学」の月報連載(43年9月~48年12月)をまとめたものである。1868年明治維新から1968年(昭和43年)までの「百年の小説」をテーマごとに作品を選び論評したものであり、最初のテーマが「青春」であり、夏目漱石『三四郎』、森鷗外『青年』から説き始め、「太平洋戦争後」の世代の作家たちにとって「青春」とはどのようなものであったか、比較検討しそれぞれの特徴をまとめている。
戦後派の福永武彦『草の花』、第三の新人の吉行淳之介の連作短編『焔の中』、その次の世代の石原慎太郎『太陽の季節』を取り上げて、次のようにまとめている。

   石原慎太郎の『太陽の季節』になると、そこには従来の日本のどの青年も知らなかった、完全に解放され、自由に自己の可能性を伸張しようとしている世代が、現実の社会に登場しはじめたことが判る。(略)
 この小説の主人公は、福永の主人公が、極度に「精神的」であったのと対照的に、「肉体的」である。吉行の主人公が「自己否定的」であったのに対して、「自己肯定的」である。福永の主人公が「閉鎖的」であるのに対して、「開放的」であり、吉行の主人公が「消極的」であるのに対して、「積極的」である。
(略)
 石原は自己の世代の実態を、残酷なまでの眼で凝視して、その栄光と悲惨とを歌っている。
 この小説の中の青年たちの、大胆で奔放な「悪徳」は、「若気の至り」などというものではなく、「大人」は「若年という曖昧なヴェールをかぶせ見て見ぬふりを」しているけいるけれども、しかし実は「彼らはこの乾いた地盤の上に、知らずと自身の手で新しい情操とモラルを生み、そして、そしてその新しきものの内、さらに新しい人間が育って行く」と、作者は堂々と宣言している。
 これほど積極的で肯定的な文学は、曾て近代日本の文学史上に現れたことはなかった。そして、それはこの作品に捉えられた若者たちの生きる態度の、そのままの反映だったと言える。
 (略)
 そして、この小説は「文学」であるよりも、一種の「社会現象」として多くの読者を獲得した。石原慎太郎はその世代を代表する英雄となった。
 それは従来、作家というものが己の属する世代のなかの「仲間外れ」的位置、群れから離れた孤独者の立場、を取りがちな日本の近代小説の歴史において、全く新しい型の作家の登場を意味した。
 同時に、「文学」の社会における位置そのものの変化をも示すことになった。


 

日程調整

 投稿者:なし  投稿日:2018年 1月 6日(土)16時21分49秒
  発表者にも少々無理をお願いしながら
次回日程を3月20日火曜
としたいと思います!

「太陽の季節」のような
反道徳的ともいえる作品を創作した者が
政治的には道徳教育を推進した
というのも酷い話ですね。
 

そういうことだったんですね!

 投稿者:なし  投稿日:2017年12月29日(金)13時51分24秒
編集済
  不眠症、とかじゃなくて
ほっとしました。

次回
有栖川有栖『幻坂』角川文庫
第1候補 3月27日火曜
第2候補 3月26日月曜 です
 

我が家は遠し!

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年12月29日(金)02時08分37秒
  帰りの電車で、考え事をしていて、我ながらすごいアイデアが浮かんだと有頂天になっていたら、電車を乗り越して、・・・というしだいです。帰ってからもビールを飲みながら、あれこれ考えていたら、ますます素晴らしいアイデアがどんどんうかんできてますます有頂天になっていたら、書き込みをした時間になっていたという次第です。昼閒まで寝ていて、目覚めてみたら、昨日考えたことはほとんど思い出せず・・・。でも楽しい会でした。私は初期の漱石作品では、『二百十日』が好きですね。
 『太陽の季節』はとにかく、思う存分ツッコミを入れながら読んで見て下さい。また、石原慎太郎の「悪文」はつとに有名ですが、この作品を読んで、国語教師として文章を添削採点してみても面白いのではないでしょうか。当日、この表現変だよなあ、というご指摘がたくさん出てくるのを楽しみにしています。「国語教師が読んでみた『太陽の季節』~作文指導の観点から~」っていうようなのも面白いかも知れませんね。(ただし、この面ではあまり自信がありませんので、気楽に当日意見をお出し願えれば、面白いかと思いますが)。奇妙な言葉遣い、意味が読みとりにくい表現、結構あるんじゃないでしょうか。今読むと、吹きだしてしまうようなキザなセリフや表現もあります・・・。新年の初笑いに格好の作品かも知れませんね。とにかく、気楽にやりましょう。では、皆様よいお年をお迎え下さい。
 

夏目漱石の全集

 投稿者:なし  投稿日:2017年12月28日(木)13時17分15秒
  佃さんが全集を全て読んでいる、というのが印象的でした。作家や登場人物に対する評価や強い感情移入等、とてもユニークでした。まさしく「好き過ぎてキライ」という心理ですね。川端康成への思いを語る和田先生も面白かったです。それにしても忠先生、遅い時間の書き込みですね。  次回「太陽の季節」よろしくお願いします!  

三四郞 感謝

 投稿者:忠さん  投稿日:2017年12月28日(木)04時52分16秒
  ツクダさん、お疲れ様でした。『三四郞』盛り上がりましたね。作品の「時間と空間」を時間をかけて丹念に分析したレジメは労作ですね。大変刺激になりました。奇をてらいがちなテクスト論者にはないコツコツ感がいいですよね。漱石はさまざまな研究がなされており、もうネタ切れの感じもしますが、でも、原点に返って、ツクダさんのようにコツコツと時間をかけた地味な探究にこそ漱石の作品の「核(コア)」をつかむことができるのだと、あらためて確信しました。二次会も盛り上がりました。私は、文学を肴に話が盛り上がる我ら・読書会のメンバーは「絶滅危惧種」であると日頃から危機感を募らせていますが、ツクダさんのように素敵な若いメンバーが参加して頂けることに感謝!この「絶滅危惧種」を未来永劫に存続するためにも、若い力をお貸し下さい!もちろん私も老体にむち打って頑張りたいと思いますし、ピュアな文学魂をもったマスダ、ワダ・ご両人も読書会の核として舌鋒いよよ冴えわたることでしょうし、この絶滅危惧種の管理人・ナシさんの気使いあってのこの会ですので、さらに頑張って戴けることと思います。年末に、今年も楽しい会で終わることができました、感謝!少し早いですが、皆様よいお年をお迎え下さいませ。  

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